2004年05月01日

人はどこまで変われるか?

人はどこまで変わることができるのかと思う。

同年代の人と話しているときに、何か、その人の限界のようなものを感じることがある。「ああ、この人はこのままずっと行くな。これ以上はあまり変わらないな。」話していて、ふと、そう感じることがある。

今年の初めに成人式へ行った。そこで中学校の時の同級生に何人か会った。その時もそんなことを感じた。喋った瞬間に、「ああ、この人はこんな風になったのか、こんなタイプになったのか。」そんなことが一瞬にして脳裏をよぎった。何か、その人の先が見えるような気がするのだ。

もちろんこれには大した根拠がない。いわば直感だ。けれども僕は、それほど間違っているように思えない。

そうでない人たちもいる。代表的なのが…そう、子どもだ。

子どもはまだ固まっていない。子どもは変わる。特にまだ小学生ぐらいの場合はこれから先どう化けるか分らない未知の部分がある。中学生ぐらいになると、思春期という時期もあり、これまでとは違った変わり方をする。そうして高校生ぐらいでも、まだ変わる余地がある。しかし、大学生ぐらいの年になると、大抵の人は固まってしまう。

何事にも例外はある。たまに大きくなっても、なお、変わり続ける人、変わる予感のする人もいる。そして僕は、そういう人が好きだ。興味を抱かずには居られない。僕は人を見るとき、これからどうなるのか分らない未知の部分も考えている用に思う。


さて、初めの問いに戻る。ひとはどこまで変われるか。これを、「人は大人になっても変わることが出来るか?」と言い換えてみる。

そもそも何故、大人になると固まってしまうのか。やはり、大きくなるにつれ、ある程度の「成長」をすることは確かだ。たいていの人には、第○次成長期とか、そういう感じで一般化されている、ある種の成長パターンが見られる。そしてもう一つ、本人の意識の働きのようなものがあると思う。

僕が、同年代や大人を見てこう感じる。この人たちは、自分で自分を規定して縛っているのではないかと。それまでの経験の中から、自分のやり方というものが固まってくる。それである程度うまくいっている(と自分で思っている)と、たとえ状況が変化しても、そのやり方に固執してしまう結果になることがしばしばある。特にこれは比較的年をとった大人に顕著だ。

変わりたくない、という気持ちもあるのかも知れない。たとえば僕の知り合いで、そんな人がいた。ある種の問題に直面したときに、相談を受けた。一見どうしようもない問題だが、よくよく話していると、今その人がするべきことが見えてくる。今その人が確実に出来ることが見えてくる。でもその人はそれをやろうとしない。全く難しいことではないのだが、それをするには、その人自身がちょっぴり変わらないといけないからだ。

思えば、世の中には、いろいろ不満を言ったり愚痴ったりするのが好きな人がいる。そうしておいて、自分で具体的に何かをするわけではない人たちだ。たぶんそう言う人たちは、愚痴をいう自分に、無意識的に満足しているふしがある。安全な場所で、自分ではリスクを負わずに、安心して愚痴をいう、という状況に落ち着いているのだ。

そうなってしまうと、自分では変われない。

しかし、そんな人たちも変わる余地があるかも知れないと僕は思っている。それは、何によってか?ある種の強制的な外圧である。
たとえば、ある日突然、無人島に一人で置き去りにされたらどうだろう。そうしたら、どんなに受け身な人でも、無気力な人でも、自分で生きるために具体的に何かをするだろう。(もししないとしたら、それはそれで本物か?)

それから、宗教なども考えられる。カルトに入った人の知り合いが、「あの人は、人が変わったようになった」と云っているのを、本などでよく読む。決して好ましい方向とは云えないが、これは、人が変わることの出来る可能性を示唆していると思う。

でも、そんな外部の圧力がなくても自分で変われる人というのは、いると思う。変化を受けれて常に新しいことを試す精神の自由さをもった人たちだ。そして僕も、そうあり続けるよう気をつけているつもりだ。
posted by aye(あい) at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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